作業事故の調査

平成27年5月に群馬県のある工場で溶解用の鋳鉄容器が自然破損の事故が発生した。その原因を究明するために8月18日に現場で調査した。

宮城県のAさん

仕事を終え、週2回いつも通りの20分コースをバイクで走らせて帰ってくる息子。
この日平成24年6月8日もいつものコースであと2キロも走れば家に帰ってくるはずだったのに…
警察から連絡が入り、事故で病院にいるということでした。しばらく待ったあげく、思いもよらぬ死亡と医師に告げられたのです。あまりの驚きに言葉も涙も出ないまま、何が起きてこんな状況になっているのかわからない状態でした。相手の上司が報告を受け病院にきて「コンビニから出てきた車に気を取られていたようで」と話していたというのです。
葬儀を終え、警察から事故状況を聞いたところ〝相手の完全なる前方不注視″と説明されました。

相手の運転手に事故の事実を教えて欲しいと言ったのですが何も話さない。きっと言えば自分が不利になると思ったのか、何か事実を隠そうとしているのか事故の原因について疑いを持つようになりました。
事故の補償については最初、相手方の会社と保険会社で話を進めていましたが、ある日、相手方が弁護士を立ててきて私共は何も解らないまま、対応する事になりました。事故の刑事的な結論も出ないまま、事故から1年がたって検察庁から呼び出しがあり「バイクのウインカーが点灯していたか」が最重要視されました。検察官はドライブレコーダーがあったことも確認しておらず、急に警察から取り寄せ、10分も見たのか、ウインカーが確認できないということでトラック運転手は不起訴。事故現場は、鋭角に曲がる交差点で大型バイクでは大きく曲がらないと曲がれない場所です。また、息子は日頃から安全運転をしているのでウインカーも点けず急にトラックの前で左折する事はないはずと思いました。何故か事実ではないと感じました。

親バカと思われるかもしれませんが、息子は大型バイクの免許を取得するためにいつも安全運転に心がけていました。交通違反をすると憧れの大型バイクに乗るための免許が取得できなくなる事を気にして車を運転する時も安全運転でした。大型バイクを購入する時も震災を挟んで2年間も食費・衣服等を節約しやっと自分で貯めたお金で購入したものです。いつも車庫で点検をしたりバイクを磨いていました。親の私にさえ触らせてくれない程、バイクに愛着を持って乗っていました。 福祉の仕事での送迎もしていたので、人を乗せた自動車の運転は急発進急停車もなくいつも快適でした。母親の心配に「ハーレーは車高が低く安定しているから大丈夫!」と言い切っていました。
そんな息子が事故を起こすとは信じられません。

相手の雇用先会社の安全管理もいい加減なものでした。親としては、事故の事実を知りたかっただけで、過失の割合なんてどうでも良いと思いながらも息子は決して悪くないと心では思っていました。また、息子の事故の原因が解かればバイカーの事故、自動車を運転する者の事故を防げると思ったからです。刑事判断も終わり、相手方の運転手も若く将来性がある事で当方としては争う気はありませんでした。それを良いことに相手の弁護士は、トラックの補償を求めてきました。当方の感情を荒立てる事となり、当方としても弁護士にお願いし、民事として争うこととなりました。相手の保険会社と弁護士が過失割合を出してきたのは40:60でこちら側の過失が高く提示してきたのです。交差点の判例図を表示し、ウインカーが点灯していないことと大回りしたことが重視されていました。ドライブレコーダーから見れば完全に左よりを走っていないが、直近左折で大回りしたわけではありません。こちらはこの判例図がこの事故に当てはまらないこと、その日の日報の提示を要請するも日報はその日の前日までは存在するが事故当日はトラック運転手が記録媒体を家に忘れトラックに乗車し勤務したとのことで未提出なことを主張しました。

こちらの弁護士に、後にウインカーの点灯の件に関しては、ドライブレコーダーから点灯していた事を証明して頂きました。残っていたのは、大回りの件でした。そうしている間に4年の月日が経ち、民事裁判における内容に納得しない中、ある時テレビで見た事故鑑定人を思い出し、弁護士に綾田氏の話を相談したところ、今回の件について依頼をお願いしてもらう事になりました。
綾田先生は早々に承諾してくださり今回の事故の鑑定をして頂く事に。実際に息子のバイクの傷、ミラーやスタンドの倒れ方の見分をした後、現場でドライブレコーダーの画像と照らし合わせ、距離の計測を緻密に行って頂きました。その結果、今回の事故は交差点内の事故ではなく、更に息子のバイクが大回りした事が原因の事故では無かった事を証明して頂きました。相手の緩慢とした運転、スピード超過が意見書として私たちの手元に出来上がってきたときは、私たちが思い描いていた通りの状況が、明らかになったことに安堵感と嬉しさがこみ上げてきた。

まだ、民事の結果は出ていませんが、親として息子が安全に運転をしていた事が解っただけでも綾田先生にお願いして良かったと思っています。しかし相手方の一方的な判断、事実を隠そうとする事に対しては、腹だたしくてなりませんし、無謀な運転により亡くなった息子は帰って来ません。綾田先生は、親身になって話を聞いてくださり、また、現場の状況等から4年もたってからの事故でも事実を究明してくださいました。綾田先生には本当に感謝しております。
今回の検証を踏まえ、全てが今回の様な運転をする方とは思いませんがトラックの運転をされるドライバーの方には、安全運転で息子の様なバイクの事故が無くなる事をお願い致します。
綾田先生、本当にありがとうございました。

サムライ放談44・・あきれた第三者委員会

東京電力福島第一原発事故で横浜市に自主避難していた中学生が転入先の市立小学校でいじめられた問題が報道されて福島県人として心を痛めていた。
この男子生徒は150万円を10人前後の同級生に渡しているが、横浜市教育委員会の第三者委員会は、「金銭を渡した行為はおごりおごられた行為と判断し、いじめまでは認定できない」としているが、何とも呆れた話である。
小学5年の時に原発事故の賠償金を名指しして金銭を求められており、この小学生の手記には『お金 もってこいと言われたとき すごい いらいらと くやしさが あったけど ていこうすると またいじめがはじまるとおもって なにもできずにただこわくてしょうがなかった』と書いてあるが、お金を渡すことでいじめから逃れようとしており、明らかにいじめのためにお金を渡している。さらに心理的な圧迫や脅威を加えたことは恐喝罪に匹敵する。
小学生が普段普通に150万円もの小遣いをもち、おごりおごられることなどあるのか?大人ですらないのであり常軌を逸している。そこで、この第三者委員会の子供や孫にこのようなことがあっても「おごりおごられた行為」として済まされるのか、問うてみたい。
このような恐喝まがいの行為をいじめとして見られない非常識さに驚くのであり、このような誤った判断により、金銭をむしり取る行為はいじめではないとの誤ったメッセージが送られてさらなるいじめが助長される。

サムライ放談43・・丸山さんのこと

あの大震災と原発事故から5年7ヶ月が過ぎた。いまでも時々被災地の福島県南相馬市を訪ねてボランティア活動を行っている人がいる。その人は横浜市の在住で元ジャンボ機パイロットの丸山巌さんである。「困った人はほっとけない」として定期的に南相馬を訪ねては力仕事まで行う気概の人である。この丸山さんは南相馬で小学生から高校生を対象とした給付奨学金を創ることを考えた。それは「南相馬こども育成基金」であり設立は認定NPO法人フロンティア南相馬と取り組んだ。
NPO法人の草野良太代表とのやり取り。
草野「南相馬の子どもたちの夢を叶えてやりたいのですが・・・・・・」
丸山「その話ひとくち乗ろうじゃないの」
草野「基金をどう工面するか?なんですよ」
丸山「取り敢えず俺が死んで、香典でも集めてみようか」
となり、丸山さんは生前葬を行い、いただいた寄付や香典の360万円をこの基金の原資とした。
この「サムライ放談33・・鶴岡のおじさん」(2015年12月19日)では、金野さんのことを紹介したが、丸山さんもまさしく「現代のサムライ」である。

サムライ放談42・・湯長屋藩

いま、「超高速!参勤交代リターンズ」の映画が上映中である。私はこの前作である「超高速!参勤交代」も観ており現実離れしたコメディーが何ともおもしろい映画と感心した。そして、今回、参勤交代リターンズが放映されると聞き、いわきの湯長屋藩の跡を訪ねてみると当時の面影がいくらか残っており映画に出てきたサムライを思い浮かべた。
この映画では、老中に復活した松平信祝が湯長屋藩を逆恨みして数々の策略により、藩主の内藤政醇一行は常識では考えられない速さで湯長屋に帰ることで数々の苦境や困難を乗り切ることになる。その原点は藩主の内藤政醇が家臣や民を大事にする人望にあったと言えて、これは現代社会での組織の長に模範となる。また、湯長屋藩の家紋は下がり藤であり、私が携わっている郷土芸能の下柴彼岸獅子舞の家紋と同じであることで近しく感じた。

サムライ放談41・・60半ばの手習い

本来ならばお盆過ぎたら朝夕涼しくなる。しかし今年は台風のためか朝夕の涼しさを感じないし残暑も厳しい。この暑い中、遠くから聞こえてくる蝉しぐれを聞きながら筆をとり漢字を書くがうまく書けない。それもそのはず、書道は小学生の時にやって以来まったく無縁で生きてきた。60半ばとなりボケ防止を含めて書道の手習いを始めたのであり、急がず焦らず諦めずに続けるつもりである。それにしても、墨を含んだ筆先を半紙に下してみると「凛」と引き締まる思いに浸るのでありこれも書の魅力と思える。